「ねっとわーく京都」(2004年5月号)田中先生自らの修正版
いよいよ始まる大学の第三者評価制度
大学評価学会の設立を語る。
田中昌人(京都大学名誉教授)
(聞き手)石崎祥之 京滋地区私立大学教職員組合連合書記長
二〇〇四年は大学にとって、国立大学の法人化や第三者評価制度の実施、そして法科大学院の開設や株式会社による大学の新設など、新たな局面を迎えようとしている。そして、日本の大学の歴史上始まって以来、初めて実施される第三者評価制度をめぐって、京都の地から「大学評価学会」を設立する呼びかけがおこなわれている。何故いま第三者評価なのか、大学はこれからどうなっていくのか、大学評価学会設立の呼びかけ人の一人である、田中昌人京都大学名誉教授と石崎祥之京滋地区私立大学教職員組合連合書記長の対談形式で、語り合っていただいた。
「大学評価学会」設立の経過
石崎 二〇〇四年四月から大学に対する「第三者評価制度」が実施されます。この度、「大学評価学会」を新たに設立されることになられましたが、設立までの経緯等についてお話し下さい。
田中 二〇〇二年一〇月に学校教育法が一部改定され、日本の大学史上初めて国公私立全ての大学、短期大学、高等専門学校、それに法科大学院など約一三〇〇校に及ぶ高等教育機関に対する「第三者評価制度」の実施が義務付けられることになりました。最近の状況では、国益や財界の意向を反映した利益に結びつく方向での教育・研究機関の役割を求める動きが強まっています。そのような中で、私たちは各人の取り組みの上で、力を合わせようと二〇〇三年夏から立ち上げを準備して一二月に呼びかけ人と設立準備事務局を作り、発起人体制が整う中で月例会を発足し、準備運営委員会を重ねてきました。そして、より学芸の内在的発展の必然性を大切にして、地球時代の人類、そして国民・住民の側から求められる平和を創造し、民主主義の深化を求める第三者評価を含めなければならない。そうでないと大学教育がおかしな事になってしまう。第三者評価を含めて、それだけでなく学芸と教育の発達を保障するための大学評価活動というものは、いかにあるべきかを学問的研究の対象にして、様々な立場から事実を全体的に明らかにし、検討を加えて広く発信していかなければならないと考えました。
石崎 そこが大学評価「学会」と名付けられた所以ですね。
田中 すでにある日本教育学会や高等教育関係学会などでは、大学評価問題も議論されていますが、やはり自然科学を含めた各層、各分野そして大学内外の人たちが参加して、大学評価の問題を正面に据えて取り組む学会は必要だと思います。京都では「学問の自由」や「全構成員自治」を大切にしてきた歴史的経過もあります。歴史的に社会の期待に応える大学づくりを行ってきた「大学のまち・京都」の地から、日本の大学史上はじめて誕生した「第三者評価」行為に対しても、学問的な研究を行い、学問的、人類史的な情報を発信して、京都だけに留めず、活発な討論が行われていくようにする歴史的、社会的な責任も感じました。
石崎 今回、大学評価の問題を正面に据えて新しいコンセプトで活動を始められるにあたって、現在賛同されている発起人や会員の数を教えていただけますか。
田中 自然科学系、社会科学系、人文科学系、各方面からの呼びかけに応えて、現在は発起人が一三二名となっています。中堅、若手の方が関心を持って下さっています。この発起人の方が中心になって、二〇〇四年三月二八日にキャンパスプラザ京都で設立総会をおこないます。
実際に、四月から第三者評価が実行されるので、自ずと各自の問題になってきますから、会員数は増える見込みです。工学系、医療系、福祉系など応用が正しく発展する事によって、全サイクルの評価が可能になる領域があります。困難の多い領域は、大事な問題が含まれている領域として、積極的に呼びかけていきたいと思っています。
石崎 近い将来、かなり大規模な学会になる可能性がありますね。
田中 事務局体制の確立や研究誌・ニュースの発行、例会や地方会など、さらに会員の方々の意向を伺いながら、様々な取り組みを機能的に進める組織にしていくことが求められてくると思います。これまでの学会のように、会員個人の研究発表だけでなく、それと共に自分たちが研究・教育にあたっていることが、大学の中でどう位置付けられ、外部からどう評価されるか、あるいは評価によるランク付けが予算配分にも関係してきますから、全ての人に関わってきます。学芸と教育を守り発展させることについて、相互理解と合意を広げて、よい解決にあたる必要があります。そして活動の社会的開示を進める必要があります。評価は改革を必ず伴います。しかも改革にあたって、質の異なる複数の組織や複数の時空間軸が、必要に基づいて柔軟に組織されなければなりません。そのため単純な段階評定だけでなく、それに相応しい多元的で変化する新しい科学的な評価が、広い意味で教育的に行われる事が求められます。
ところが心配なことに、幾つかの大学では関係者を除外した所で、教職員のリストラ実行や強権的な管理者の意向に従うか否かの踏絵として、「評価なるもの」が導入されようとしています。そのような構造も解明して、二度とそれを許さない、内部規律を持って守らせることも学問的成果として必要ですから、学会の形式や活動も新しいものになると思います。学生・父母、住民や労働組合、大学関係者などに門戸を開き、民主的なルールによる協力、共同をして、国民的な要望は中小企業も含めた産業界や高齢者、外国人、障害のある方などの意見を取り上げて真剣に取り組まないと、進んだ意味で学問の自由を守ることはできないと思います。
石崎 すでに、マスコミなどにも取り上げられていて、各方面の関心も高いと思いますが、どのような声が寄せられていますか。
田中 先に述べたことは第一義的には、それぞれの大学や関係者の努力で解決が必要ですが、その解決過程も含めて学問的な吟味をしなければなりません。それは、学芸やその教育に携わるものの社会的責任を果たす事でもあります。そのため、大学関係者の方々から 「よく呼びかけてもらった」「時宜にかなった適切な計画、提起である」「何かしなければいけないと思っていた」と賛同や期待の声が数多く寄せられています。特に、社会科学分野の方々は、評価問題に取り組まざるを得ないと感じておられたようです。また大学院生からも期待の声が上がっています。新聞記事をご覧になった社会人の方からは、「参加するにはどのようにすればいいのか教えて欲しい」という問合わせもありました。
大学評価学会は、国の第三者評価の組織とは違う明確なスタンスを示していますから、独立行政法人や各種の研究組織の方にも発起人になって頂けています。法人理事者や第三者評価機関の方にも参加して頂き、より良い方向が作り出されていくと思います。大学評価学会に関するお問合わせは、京都市伏見区深革塚本町67龍谷大学重本研究室気付、大学評価学会設立準備事務局(075・645・8630)へお願いします。
日本の大学評価と諸外国の大学評価の違いは何か?
石崎 大学評価に関する専門家は、日本にいらっしゃるのでしょうか。
田中 大学自治や大学経営、大学教育の研究者の方も、大学評価を各分野で実践的に取り上げられることは、これから新しい段階に入る所だと思います。最近の動向について、歴史的な経過をまとめられたり、国際的な比較検討や日本の評価システムについて問題点を吟味されたり、学問分野によっては、資格授与やそのための教育改革、倫理綱領の検討をされている方はいらっしゃいます。第三者評価機関の方も、評価された結果がどう用いられたかという事実に対して、科学的な検討を加える中で、専門家となっていかれるのかもしれません。この間、約四〇の国公立大学で三度目の試行的な評価が行われ、大学からの異議が四五四件寄せられたとのことです。木村孟大学評価・学位授与機構長は「一定期間を経たら評価方法は変えるべきだ」と述べています。また、中央教育審議会・大学分科会会長の佐々木毅東京大学総長も「国立大学にとって今後一年間は、いわば学習過程」と言っています。まさに今は学芸と大学教育に対する、社会的な責任の一端を果たすべき大学評価について、学問的研究の発展が求められている大切な時であると思います。
石崎 日本の大学評価は、まさに始まったばかりという感じですが、日本の大学評価システムと諸外国の大学評価システムは、どのような違いがあるのでしょうか。
田中 日本の第三者評価が試行段階を越えるのはこれからですが、イギリスの大学評価システムに近い面があると指摘されています。しかし間違いを恐れずに言えば、日本の第三者評価は世界に例のない、教育や研究内容と予算に国の直接的な統制が非常に入りやすい、懸念の多いシステムになりそうな面を持っているといえます。もう一つは、政権担当者がどう変わっても、財界が利潤追求をしていく上で、利潤追求が失敗しても再び利潤が追求できるように、財界本位のシステムを確保しようとしていることです。国家主義と新自由主義が、その特徴にあるといったらよいでしょうか。
あまりご存知ない方が多いので紹介しておきますと、イラク戦争が始まった二〇〇三年三月二〇日と同日に、中央教育審議会が「新しい時代にふさわしい教育基本法と教育振興計画のあり方について」答申をしました。小泉内閣は、これまでの独立した大学審議会を廃止し、中央教育審議会の下部の一分科会として大学分科会を置いています。また、大学教育や評価に関する規定などを、教育基本法や学校教育法の改訂の中に入れて、教育全ての国家統制ができるように一元化しようとしています。今回の大学に対する第三者評価も、そのような構造のもとで行えるようにしています。中央教育審議会は、先の答申で現行の教育基本法を次のように変えるといっています。
現行法では「教育は人格の完成を目指し、平和的な国家及び社会の形成者として…」と教育の目的が述べられています。しかし答申では、この「平和的な国家及び社会」という表現は影を潜めてしまいました。その代わりに「二一世紀の国家社会の形成に主体的に参画する日本人」となっています。平和を削除していることは、日本国憲法の第九条の改訂と連動しています。大学教育においても、国家と社会が一体となった「国家・社会の形成」に「主体的に参画する日本人」であることが求められています。更に「日本の伝統・文化を基盤」としてと、伝統と文化を一体にして拠って立つ所を定めた上で、「知の世界をリードする大学改革」を進めると競争性を前面に出し、政府が主導して「グローバル化に適確に対応する」こと等、そのために「施策目標はできる限り数値化し、達成度の評価を容易にして検証に役立てる」としています。そして「施策の優先順位の明確化」と「重点化」を行うとしています。また、これからは「人材教育立国、科学技術創造立国を目指す」ために「教育投資の充実」を行うとしています。
答申では、大学教育が国民の教育権の一環としての「人格の完成」を行うよりも、国家の教育権の礎として、国家に従属させる人材をつくることが明瞭に打ち出されているのです。「国立大学の法人化など大学の構造改革を推進する」として、さらには「人生観と世界観を保証する大学教育の実現を図る」などと、何をするのかと思うような内容を答申しています。一人ひとりの人生観や世界観は自由に形成されるべきで、国家が決めた「二一世紀の国家・社会の形成に主体的に参画する日本人」として、人生観や世界観が枠にはめられて、出来栄えが「保証」される大学教育などは、本来のものとは無縁の否定されるべきものです。それにも関わらず、そのようなことを含めて「質を保証するための第三者評価システムの構築を推進する」という構造になり得る面を持っていることに着目した吟味が必要です。この答申が強行されれば、日本の国立学校財務センターが「イギリスでは、個々の大学は政府と直接的な関係を持つことなく、高等教育フアンディング・カウンシルを通じて、間接的な関係を持つだけである」と述べているのとは、大きな違いをもつことになります。
ユネスコの採択した「高等教育教職員の地位に関する勧告(一九九七)」や「ユネスコ高等教育世界宣言(一九九八)」そして世界科学会議の「科学と科学的知識の利用に関する
宣言(一九九九)」や国連総会で採択された「平和の文化に関する宣言(一九九九)」といった国際的な潮流にも反する構造のもとで、大学評価が第三者の名の下に実施されるのであれば、国際的な問題にもなり得るでしょう。理事者や大学関係者、第三者評価機関の関係者は、国際的、国内的に置かれているこのような力関係をどのように認識し、評価活動とその影響について、それが悪い結果をもたらさないために、どのような内部規律や倫理綱領をもって臨むのかが問われます。また大学評価の結果が、どんな使われ方をしても、あずかり知らないというのでは、余りに無責任であり大学評価を行う資格が問われるものです。このように、今日の日本における大学評価は、日本国憲法と教育基本法の改訂と連動しつつ、まさに「大学や学芸の自主性・自立性」や「教育者の教育の自由」「学生の教育を受ける権利」の根幹に関わる問題が侵されないように、歯止めが必要であると考えます。それは全ての大学人、そして国民に関わってくることなのです。
日本の大学に対する第三者評価の特徴
石崎 現在の日本では、大学の第三者評価をどのように行おうとしているのでしょうか。
田中 国立大学法人と私立大学とは目下のところ同じではありませんが、公私の格差のある所では、これから述べるシステム全体の運用と波及効果には注目が必要です。個々の国立大学法人では、各機関ごとにそして大学として六年の中期目標・中期計画をたてて、自己評価を経て法人役員会にはかります。役員会は、学長と学長が任命した理事で構成され、そこで中期目標についての意見や年度計画に関する事項、予算の編成・執行、決算に閲する事項など重要事項についての議決が行われます。なお、学長は学外者を含む経営協議会と教学に関する学内の代表者によって構成される教育・研究評議会の場で選考されるため、これまでのように教授会構成メンバーによる選挙で決まるのではありません。また大学の管理・運営には、民間的発想の運営管理手法が導入されて、学外者の参画による運営システムが制度化され、大学で働くものには非公務員型の人事システムが適用されます。
各大学の中期目標・中期計画は、国立大学法人評価委員会の意見を聴いて、文部科学大臣が認可します。それに基づいて実施した結果は、各大学の自己点検・評価が行われますが、そのうち大学の教育・研究面の評価は、独立行政法人の大学評価・学位授与機構が第三者評価を行います。それを含めて経営・財務の全体の達成状況を、文部科学省に設置された国立大学法人評価委員会が総合的に評価します。そして文部科学大臣に、業務継続の必要性などについて意見をつけます。それが運営費交付金の配分に反映するのです。またその評価結果は、総務省の政策評価・独立行政法人評価委員会に通知されます。そこでも評価を受けて、大学の改廃などに対する勧告が行われることがあります。この他にも、行政改革推進本部や総合科学技術会議、経産省の政府機関や財界などからの評価が加わることが指摘されています。各大学の中期目標・中期計画とそれに対する評価結果は公表されます。その成果をもとに、財界からの助成や協力関係が出来ていくと、その実態がさらに進学にも影響を与え、今以上に大学がランク付けられ、大学に対する差別が激しくなることも懸念されています。
私学の場合は、文部科学大臣が認証した評価機関が第三者評価を行います。その結果は、やはり資源配分に反映されますので、先に指摘したのと同じ国家統制と波及効果が懸念されます。そのため、第三者評価といっても国と財界の様々な意向が、大学の内部や外部に幾重にも加わりやすくなっているため、大学にとって抑圧や誘導のシステム、あるいは差別激化のシステムになりかねない恐れがあります。
石崎 このままでは、今まで大学が築き上げてきた「学問の自由」や自主性・自律性といった到達点が、突き崩されてしまう恐れもあるということでしょうか。
田中 その点について文部科学省は、政府の国民向けの広報誌の中で「国、国立大学、そして社会(国民、企業、地方公共団体など)の適切な関係が築かれる」「今後国立大学には、自主性・自律性と表裏をなす自己責任の下、能力と個性を最大限発揮していく事が求められています」といっています。そして、それに応えることによって「国民の理解と信頼が得られ、社会の要請に的確に応えられる、個性輝く国立大学に生まれ変わることが期待されます」と述べています。これは学問の基礎を重視して、系統的な大学教育を保障するというより、かなり違いを際立たせて選別化した、多様化を進めることが懸念されます。抑圧や誘導的な評価が行われて、それに自らを売り渡さなければならないことを心配するような状況の中で、果たして学問の自立的な発達や学生の教育を受ける権利、教職員の人権は保障されるのかという大きな問題があると思います。
石崎 国立大学の中では、労働組合の加入者が増えているとの報告もあります。
田中 これまで財界がおこなったように、思想信条によって差別したり、財界の事情によってリストラをしたり、国際労働機関の幾多の条約を批准しないまま成果業績主義に基づく賃金制凌が持ち込まれないように、労働組合が注意しなければならない分野が増えてきます。また国立大学の教職員は、国家公務員から非公務員型の身分になるので、非常勤講師やパート・臨時職員の待遇改善や就業規則などで身分保障を規定すること、労働三権の確保、採用・解雇に関するルールづくりや兼職・兼業の規定、労働安全衛生や家族の発達を守る条件を確保する事など、労働組合が法人や国との間で果たす役割は大きくなると思います。
日本の教育における大きな課題
石崎 先生は「大学生の発達保障と大学評価」についても問題提起をしてこられましたが、日本の場合大きな課題は何処にあるとお考えですか。
田中 一刻も早く踏み切る必要があることを二点申し上げます。一つ目は、高校、大学における無償教育の漸進的導入に踏み切ることです。二つ目は、高校から二〇歳代半ばまでの一〇年間の発達に対するトランジション保障に踏み切って、その間における過度の競争を廃して、青年期のための本来の教育を創造し、その中に大学教育を位置づけることです。
無償教育の漸進的導入は一九六六年の国際人権規約第一三条で、高等学校と大学に導入することが国際的に約束されています。そのため、欧米やオーストラリアなどでは、国によって工夫をして入学金や授業料を無料にしています。受益者は本人・家族だけではなく、それを含めてもっと広く長く続く社会であり、社会に貢献する人材に対して税金で負担するのは当然のことです。そして本人も、社会のために良い貢献をする人間になることを知る中で、一八歳選挙権を持ち大学の進学を経て、大人の自覚がもてるようになるのです。もっともアメリカやイギリスは、イラク戦争やテロ対策の出費がかさむので、ここ一〜二年大学に対する予算が削減されてきて問題が生じています。戦争をなくすということと、大学教育の条件を改善することは不可欠の関係にあるのです。
ところが日本政府は、一九六〇年の教育における差別反対条約を批准せず、一九七九年に国際人権規約を批准する際に、第一三条の無償教育に拘束されない権利を留保するとして背を向ける態度をとり続けています。現在では、高校進学率九七%、大学進学率は四八%の水準にある中で、国立大学の初年度納付金は一九六六年当時の四八・四倍にもなっています。日本は、無償教育の漸進的導入どころか、有償教育の急進的な高騰を進めて世界一の高学費国となったのです。現在の日本では、平均して高校入学から大学卒業まで約一〇〇〇万円の学費が掛かるのです。そして家計に占める教育費の割合は高くなって、家庭の経済格差が拡大する中で、退学せざるを得ない学生も増えています。奨学金は、給付でなく貸与で、しかも利子付きという制度しかありません。また、一人親と子の家庭が増える中で、大学へ進学できない若者が増える傾向にあります。これは教育における機会均等の原則に反するものであり、大学教育が同年齢の人たちの中で貧困層の青年にとっては、発達が保障されない制度になりつつあることを緊急に改める必要があります。
青年たちにとって、大学が潜在的可能性を発拝できる民主主義の光り輝く場となるために、留学生も含めて学費や学生生活費の負担を減らさなければなりません。大学と大学行財政の中期目標・中期計画にその視点を入れて、民主的な第三者評価を行う必要があります。国際連合の社会権委員会は、二一世紀になって日本政府に対して、この無償教育の漸進的導入を要求し、その取り組みを二〇〇六年六月末までに報告するように求めています
が、小泉内閣の方針はこの問題を全く無視しています。
大学の経営基盤を支えつつ、大学における無償教育の漸進的導入を行うためには、国内総生産費や一般政府総支出に対する大学教育への予算支出額が先進諸国三〇カ国の中で最低位にある現状を、他国並みの水準にするために二〜三倍に引き上げて、公私の格差をなくす必要があります。大学で学ぶ学生や、そこで研究教育とその業務にあたる教職員に起きている人権侵害や経済的条件などによる格差の是正を図って、条件を整えることが出来るかどうかが大学評価の基本です。
いま弱い立場に置かれている学生の学校納付金を軽減すると共に、入学検定料が払えない学生を受験させなかったり、授業料を納付出来ない学生を退学させるといった制度を、どう改善するのかという視点が中期目標・中期計画には必要です。それに対する第三者評価も行われていないとしたら、それは大学評価として欠陥があるといえます。
青年の発達を保障するもの
−学校数育と社会教育の大切さ
石崎 もう一つの青年期の成人への豊かな発達を保障する問題についてお話し頂けますか。
田中 私の専門分野から一番託したいことは、人間の発達を大切にするということです。未来を担う青年の発達において、一四〜一五歳というのは生後第四の発達の力が発生してくる重要な時期です。その力とは、同年齢、異年齢あるいはプロの人たちと「連帯・協力して、学びつつ教える体験を経て、より深く学び創造的な価値を作り出す力」という面をもっています。これに対する教育は、発達を促がす複数の時間単位をもった教育を行い、二〇歳代半ばの人格の発達的な基礎として「歴史的、社会的、創造的で民主的な第一期の社会的自己」を形成しつつ、大人になっていきます。個性を現しつつ経験を教訓としながら成長する中で、非科学的・非人道的なものを制度として持ち込まないようにして、その発達を保障していくことです。
経済協力開発機構の教育研究革新センターも義務教育終了後、二〇歳代半ば頃までの継続的・持続的で成人になっていくための全人間的局面の発達に対するトランジション保障をすることを重視しています。そこでは@自立と自律、A生産的諸活動、B社交関係、地域参加、レクレーションと余暇活動、C家庭での役割の履行という四つの領域で幅広くトータルに捉えられています。これを基礎に整えて、学校教育の成果が上がるように内容や条件を吟味していくのです。これは若者が社会に出て労働分野でディーセントワーク(人権が保障され、人間らしく生き働くことで、人格価値の発達に好ましい労働)を保障していくことと結合していきます。
ところが日本では、この時期に高校受験が始まり、大学受験、就職などと次々と排他的な競争組織の中に投げ込まれ続けていきます。他者やプロの人たちと各種の連帯をして、学び教えることは教育の中にはなく、自分達にいま生後第四の新しい発達の力が生まれ育っていて、互いを尊重し合わなければならないといったことも、教育内容に含まれていません。自分の発達のことや、自分たちの発達を大切にする方法も学べず、それが無視され続けている所で排他的な競争だけが組織されて、点数で全てが評価されるのでは、その評価が自分にとって何であるのかも分かりません。自分を作られた排他的競争に売り渡すことから、守る責任が民主的な社会にはあります。
国際比較の調査では、一九七〇年代から一貫して中学生、高校生、そして大学生も日本の場合は自分に誇りや自己肯定感を持つことが弱く、教師や親の子どもに対する信頼性と子どもの親や教師に対する信頼性が低くなっています。自分と自分に関係する人との間で、信頼性が弱くなっているのは危機の信号です。体験が貧しく、生産的・実験的・調査的教科が不振で、学力が低い。これらは生活環境や教育環境が貧しく、各種の汚染、文化的汚染の中に放置されている中で生じてきていることです。これは解決可能ですし、その基本は青年期教育を教育本来のものにしていくことによって実現できます。その仕上げのところに、継続したものとして大学教育があるのです。そのような一貫性において、教育内容や条件を改善・評価することです。ここを抜きにして科目の成績だけを上げようとして評定しても、青年・学生の発達を保障するための教育評価にはなりません。
国際連合の児童の権利委員会の方や社会権委員会の方は、それぞれ日本の教育が高度に競争的な教育制度の下で、ストレスと発達障害にさらされていることに、強い懸念を示して改善勧告をしています。大学評価は、自らが児童期・青年期の一貫した教育の中でどのような位置にあって、どんな影響を与えているのかを不可欠のテーマにして、言わば制度的虐待の構造を改める課題をもっていると考えます。
石崎 今の日本の青年にはこれから多くのことが託されることになりますが、社会全体がそのことを知り、また青年達もそれを知って手を携えていくあり方を作ること、大学もそれを考えた努力をすることが必要ですね。
田中 今の大学生が五〇年後の高齢を迎えた時、これまでの私たちの五〇年の努力を超えた生き方が求められてきます。少子高齢化だけでなく、働き手が少なくなる中で、社会的生産労働や発達保障労働の多くを担い、アジアの人口急増問題や貧困問題、資源不足問題、環境汚染問題、緊急事態への国際的対応など、これまで遭遇しなかった以上のことを科学・技術・文化の発展の中で担うことになります。しかも、二〇世紀における日本の国内外の経済的・倫理的・軍事的・環境的・資源的な負の遺産を大きく背負って、二一世紀の課題にあたらなければなりません。それに挫けることなく立派にやりあげていく、かつてない任務を担ってくれる青年たちを競争の中に追い込んで、学費や税金などの負担を増やし続けて、ディーセントワークを含む発達保障の制度的基礎も用意しないというのでは、二〇世紀を担ってきた者の歴史的責任が問われると思います。そして、歴史的責任を担った大学評価への関わり方を持つことが根底に求められると思います。
新たな大学づくりを目指して
一市民・社会へのメッセージ
石崎 ここまでのお話をお聞きしていると、大学は二一世紀における青年の真の発達に関わって、何に取り組まなければならないのかという課題が分かってきました。また、従来の学問を踏まえて、きちんとした学校教育と社会教育を行える体系を作れば、自ずと問題の回答が出てくるようにも思います。『ねっとわーく京都・大学特集号』は、特に京都に関心を持つ各地の方々に、よくお読み頂いているそうです。もちろん、多くの京都府・市民の方も目を通して下さっていますが、そういう皆様に対して、先生からのメッセージをいただけますか。
田中 京都の歴史は日本の歩みの中で、世界やアジア、日本各地から学びながら、日本文化や学問の伝統を創ってきました。しかしそれは京都だけのものではありませんし、国の内外に発信していかなければならない位置にあります。そのような中で、今まさに二一世紀を担う人たちの生き方に学問がどう貢献して、学問がどうあるべきかを、考えていかなければなりません。そして大学が、その中でどういう役割を果たすのかを考えないといけない時にきていますし、この学会の誕生もそうですが、大学をめぐる新たな運動が生まれてきていると思うのです。そのことをぜひ知って各地でご活躍を頂きながら、なお京都で考えなければならない点をご指摘いただければ幸いです。
そういう情報の還流ができる一つの拠点としての「大学のまち・京都」が、日本の大学の歴史が始まって以来の大学で起きていることを、大学評価の観点から考えていこうとしているのです。学問をめぐって新しい問題が起きた時は、必ず学会が生まれています。大学評価という、すぐれて社会的な問題に対して、今後は本来の評価のあり方について考えていくことを継続していきながら、それにお力添えをいただきたいと思っています。そして世界文化遺産の京都が、単なる文化の遺跡ではなく、人間が生きて大切にされている文化を新しい時代につくりつつ、大学の内外と手を携えて未来に発信していく生き方をし続けていけるようにしたいと思っています。
石崎 私は大学で観光学を教えているのですが、その点ではちょうど橋渡しができるのかなと思ったりしていました。だから、京都を訪問する多くの修学旅行生に対して、文化発信の社会教育という部分の押し出しを作って、本当の意味での内容を持った修学旅行になれば、観光に大きな深みが出てきますし、「大学のまち・京都」において学校教育や大学数育との融合も上手く出来ると思います。そうすると、新しい時代を生み出す京都と各地との繋がりも拡がってくると思います。本日は、ありがとうございました。
たなか まさと
1932年東京都生まれ。京都大学教育学部卒業。54年京都大学教育学部助手を経て、56年より大津市立南郷中学校(近江学園分校)教諭。70年京都大学教育学部助教授、83年京都大学教育学部教授を経て、95年京都大学名誉教授。96年より龍谷大学文学部教授、03年3月龍谷大学を退職その間、全国障害者問題研究会全国委員長、人間発達研究所所長、日本応用心理学会会長(現名誉会員)などを歴任。『障害のある人びとと創る人間教育』(大月書店、2003年)など著書多数。
いしぎき よしゆき
1961年京都生まれ。立命館大学経営学研究科博士前後期課程修了後、93年4月、国際連合地域開発センター研究員。95年4月、立命館大学経営学部助教授(交通論、国際ロジスティクス論、国際観光論を担当)。日本経営学会、日本交通学会等に所属。大阪府将来像構想検討委員、京都府北部物流構想検討委員等の公職を歴任。